The lost voice


2001年。アチェ北部の村で一人の少女を紹介された。
黄色のスカーフを頭から被り、怯えた目をしていた彼女は、カメラを見ると泣き出した。

「国軍はこの少女に何をしたと思いますか?」
案内をしてくれた女性がこう問いかける。

「国軍兵士は、少女の髪を切り落としたのです」

その時の恐怖が今でも残っているのだろう、少女はその日以来言葉がしゃべれなくなったという。

言葉をはっすることが出来なくなった少女の姿は、弾圧され続けてきたアチェの人々の姿を悲しいほど象徴していた。



>>ギャラリー




共に生き、共に死す



「息子が殺された時、まだたったの13歳でした」
国軍によって息子を殺された母親の一人はこう言った。

「遺体の首にはロープが巻かれていて、体中に多数の刺し傷が残っていました。酷い拷問の末に、国軍兵士は私の息子を
殺したのです」

今年8月、東アチェで国軍による虐殺事件が相次いだ。

「インドネシア国軍は当初、村から20人ほどの男子を連行しました。私もその一人でした」
虐殺から逃れた男性が、その日何が起こったのか語った。

「私たちは国軍の軍トラックに乗せられて、数キロ先の森の中に連れていかれました。森の中で兵士からスコップを
渡されて”穴を掘るように”命令をされました。それを聞き、国軍は私たちを殺すつもりだと直感しました。
深さが大人の背丈ぐらいある穴が掘り終わる頃、兵士たちの隙を見て、私たちと仲間は、その場から逃げ出したのです」

国軍兵士たちは、森の中に逃げ込む人々に向けて銃を乱射した。

「どう表現したら良いのでしょうか。笑い声が聞こえたり、私たちを狙い撃ちする兵士たちは、まるでゲームを
楽しんでいるようでした」

その時逃げ遅れた9人は、鋭いジャングルナイフで刺された後、自ら掘った墓穴の中に埋められた。
発見された遺体の首には、まるで家畜のようにロープが巻かれていた。

母親は息子が眠る墓地に案内してくれた。森の中にひっそりとある平地に、虐殺された仲間たちと共に埋葬された
彼のお墓があった。虐殺された31人のうち、5人は16歳以下の少年たちだった。死者に敬意を示すために、
みな靴を脱いだ。うっすらと目に涙を浮かべた母は、時々深い溜め息をつきながらこう言った。

「苦しみながら死んでいった息子の事を思うと、国軍が憎くて仕方がありません。どうしたらこのような酷い殺し方が
出来るのでしょうか。ここには法律はありません。人を殺しても罪にはならないのです。私は知りたい、なぜ国際社会は
アチェを無視し続けるのですか?」

アチェの独立は認めない

インドネシアの最北端に位置するアチェ特別自治州。人口約450万人。主要産業は農業だが、ゴムやコーヒー、
木材なども輸出し、石油や天然ガスなどの地下資源も豊富にある。北部にある天然ガス田では、インドネシア国内で
採れる天然ガスの3分の1を産出しており、そのほとんどが日本や韓国に輸出されている。

20年間で一万人以上の犠牲者が出ているGAMとインドネシア国軍との争いは、アチェの豊富な資源の権利をめぐる争い
とも言える。インドネシア政府にとって、資源豊かなアチェは重要な存在で、またアチェが独立を果せば、パプアなど
他の諸島もそれに続く可能性があり、インドネシアという国が崩壊するという危機に見舞われる。

メガワティ大統領は繰り返し「アチェの独立は絶対認めない」と宣言し、アチェには現在、4万人規模の兵士と警察が
動員され、インドネシア国軍は今年5月から、治安維持という名目でGAM掃討作戦を続けている。

「半年間で、犠牲者はわかっているだけで1500人以上、しかし消息不明になった人の数を入れるとそれ以上だろう」
地元紙「クタラジャ」の編集長が言う。

独立を果せば生活も豊かになる

インドネシアからの独立を掲げるGAMは、1970年代半ばに結成された。
当時のスハルト政権は、アチェで採取される天然ガスの収益すべてをジャカルタ中央政府に送るなど、アチェの人々の
反感をかっていた。それに加え、 警察や役所、油田施設などで働けるのは、地元のアチェ人ではなく、移民してきた
ジャワ人だけという、まるで植民地化のような政策も続いていた。

アチェの資源はすべて吸い取られ、言葉はインドネシア語を強要された。ジャワ島から大量の移民がアチェに移り住み、
地元の男は仕事を失った。ジャカルタが発展を遂げる一方、アチェの人々は貧しくなるばかりだった。

「アチェが独立を果せば、我々の生活も豊かになる」
人々は、GAMのこの言葉を信じた。独裁者スハルトに立ち向かうGAMは、アチェ全土で支持されるようになる。

しかしその後、GAMは国軍によって徹底的に弾圧され、自治政府を組織したGAM創立者ハッサン・ディ・ティロら数名は
海外へ亡命したが、その他の幹部はすべて軍によって殺害された。以後 GAMの兵士たちは、同じイスラム諸国のリビアなどで軍事訓練を受け、そして80年代後半、GAMはアチェで独立闘争を再開する。

1989年、再び沸き上がった独立運動を鎮圧するために、スハルト政権はアチェを軍事作戦地域(DOM)に指定した。
政府は、ジャーナリストや国際機関がアチェに入る事を禁じ、98年までの約9年間の間に、独立運動に関わった数千人が虐殺されたといわれる。

ブミフローラの虐殺

今年8月9日の朝、ブミフロ−ラ農園で働く作業員は、国軍によって農園の一角に集合させられた。
ジャワ人を含む総勢50名ほどの作業員が集まり、「アチェ人だけが残るように」と兵士が言った。
女性や子供を含む数十人が一列に整列させられ、辺りには 迷彩服に身を包んだ数十人の国軍兵士がいた。
彼らの誰一人として、笑顔を見せなかった。

「司令官らしい男は私たちに、”GAM(独立派武装組織)はどこにいる”と質問しました。みな恐ろしくて、
口を閉ざしたままでした。
しばらくして男はこう言いました。”悪いが報復しなければならない”と」生存者の女性が言う。

独立派ゲリラは一ヶ月ほど前、同じ地域の国軍基地を襲撃して兵士20人以上を殺害している。
司令官が言った”報復”とは、その襲撃事件に対してだった。

「腹這いになって機関銃を構えている一人の兵士がいました。
司令官が彼に、何か怒鳴り声を上げ、殺されると思った瞬間には、もう遅かった」

人々は逃げまどい、彼女もお腹に銃弾を受けて倒れこんだ。彼女は国軍が立ち去るまで痛さを我慢して、
このまま死んだふりをしようと決意した。傷口から血が流れ出て、気が遠くなっていくのがわかった。
彼女は必死で心の中でコーランを読み、アッラーの神に祈った。

どれだけ時間が経ったかわからない、かすかに聞こえていたしゃべり声が止んだので、彼女は目をうすく開けた。
国軍は撤退したようだった。立ち上がって周りを見ると、折り重なるように倒れている死体がいくつもあった。

「地獄のような景色でした」

その時彼女の他に、生存者は3人いた。しかし貫通した傷が原因で、2日後に一人が死亡したという。

虐殺事件の3日後、地元の赤十字による遺体の捜索が始まった。ボランティアの一人が言った。
「遺体は全部で31体ありました。国軍に通過の許可を願い出した時、国軍当局者は私たちに、虐殺はGAMの仕業だと
言いました」

独立の夢

「わたしが兵士になったのは昨年、ちょうど17歳になったばかりでした」

中国製の自動小銃を肩から掛けたリンダは、戦友に囲まれながらこう言った。
ジルバブと呼ぶイスラム女性のスカーフを頭へかぶり、爪には赤いマニキュアが塗ってある。

彼女は昨年以来、独立派武装組織・自由アチェ運動(GAM)の兵士として戦っている。
GAMに入るきっかけは、屈辱的な事件がきっかけだった。

リンダの村が国軍の掃討作戦を受けたのは昨年の9月だった。装甲車が何台もうなりをあげ、威嚇しながら走っていた。
数え切れない程の兵士がいて、民家を一軒一軒捜索している姿が見えた。

母親から裏庭から逃げるようにと言われたが、表で聞こえる銃声に怯え、リンダは足がすくんで動けなくなった。
ドアを蹴り開けた国軍兵士は、家の中に流れ込むと同時に、銃身で母親の頭を殴った。
彼女は表に止めてあったトラックの中に押し込まれた。
窓がない真っ暗な中に、他に3人の若い女性がいた。

「それから、国軍の基地内にある物置のような場所に閉じ込められました。そしてそこで、兵士たちに強姦されました」

数日後に解放されるとき、リンダは兵士にこう脅された。

「この事を誰にも言うな。もし言ったら、おれたちはお前を殺す」

村に帰ると母親がいて、何も言わずに泣き崩れた。

「またいつ同じ目に会うかもしれない」
リンダには、戦う以外選択する道はなかった。彼女はGAMの兵士として戦う事を決意した。

GAMに志願した者は、男であろうと女であろうと約3ヶ月間の軍事訓練を受ける。ジャングル戦に供えての訓練は
想像以上に厳しいもので、銃の取り扱いや射撃訓練、重い荷物を担いでの行軍は数日間続く。
アチェ全土でゲリラ戦を続けるGAMの兵士は推定5000人、そのうち女性兵士は200人いるといわれる。

リンダは言った。

「私の現在の任務は主に情報収集です。しかし、前線で戦うようにと指令がきたら、私は喜んで戦います。
死ぬのは怖くありません。祖国アチェ独立のために戦います」

独立を夢見る兵士たちの戦闘服に縫い付けられている肩章には、アチェ語でこう書かれていた。

”共に生き、共に死す”




2001年 アエラ掲載


>>ギャラリー


page top