慟哭のカシミール




インドとパキスタンの領土争いが続くカシミール地方。

犠牲者は13年間で6万人に及ぶ。

泥沼化の争いは、美しい土地で悲劇を生んでいる。




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インド軍兵士によって殺されたアブドゥルの遺体は、白い布に包まれ、居間の中央に置かれていた。アブドゥルの妻
パルベーナは、体を小刻みに震えさせ涙を止めどなく流している。年老いた母と肩を寄せあいながら、彼女は残された
7人の子どもたちと共に、遺体を囲むようにして座っていた。

葬儀が行われた居間には、数十名の参列者が訪れていた。身動きも出来ないくらい一杯になった居間の中で、
みなアブドゥルの死を悼んでいて、泣いていた。パルベーナに抱えられた幼い2歳の娘だけが、父親の死を理解することができず、無邪気に微笑んでいる。昼の礼拝の時間でもあり、静まり帰った村に、悲しい泣き声が響き渡っていた。

近くのモスクからコーランが流れていた。「アッラー(神)は偉大だ!」と村びとたちの叫び声が聞こえる。
なだらかな盆地が広がっているダルポラ村の周辺には、いくつもの集落があった。谷間から流れ出していた清流は、
次第に透き通った一つの川となり、村の中央部を流れている。
川辺で洗濯をしている女性たちの背景には、壮大な山脈が続いていた。その山頂付近には、すでに白い雪が積もっている。カシミールをインド領とパキスタン領に二等分する軍事境界線は、目の前の山脈に沿って引かれていた。その軍事境界線は全長1300キロにも及ぶ。

「お父さんを殺したインド軍に、いつかきっと復讐してやる!」
10歳になる息子のシャビールが、突然叫んだ。大声で泣叫ぶ彼は興奮し、年上の兄に抱えられて表へ出て行く。
シャビールの一つ下の妹は、17歳の長女ファティと共に、父親の遺体に寄り添いながら啜り泣いていた。

葬儀も終わりに近づき、参列した村人たちが一人ずつ、アブドゥルに最後の別れをした。髭をたくわえた男たちが無言で
棺を担ぎだす。
家の付近にはイクアン(アラビア語で兄弟の意)と呼ばれる自警団がいて、人々の行動を見張っている。私服で自動小銃を持った彼らは、元イスラム過激派メンバーたちで、数年前にインド軍に投降した。インド軍は彼らに銃を与え、
インフォーマー(情報提供者)として利用している。葬儀に参列した人々は、彼らと目を合わさないようにしていた。

未亡人の村

「未亡人の村」と呼ばれる村がある。
カシミール北部のクプアラ地区、ダルポラ村。人口約3300人のこの村は、インドとパキスタンの軍事境界線上にある。

「ダルポラ村には現在、212人の未亡人が暮らしている。この村では、イスラム過激派メンバーだと疑われると、インド軍によって殺されます。そしてイスラム過激派は、インド軍に協力する人々を”裏切り者”と呼んで容赦なく殺害するのです。連行された村の男性たちが、そのまま戻ってこないケースが多い。ダルポラ村が未亡人の村と呼ばれているのは、その為です」
地元英字週刊誌『サハラ』の記者が言う。

ダルポラ村の人口は以前、一万人を越えていた。しかしインド軍とイスラム過激派の争いが続き、今では村の人口は
3300人ほどに減少した。現在村には約650家族が暮らし、単純に計算すると、村の3分の1の女性が、夫を失った
ことになる。そして夫が殺されてから村を去る家族も多くいて、50人以上の未亡人が村を出ていったという。

平和だった村が一転

パルベーナは1960年の真冬、ダルポラ村で生まれた。
教師として小学校で教えていた25歳の時、彼女は幼馴染みだったアブドゥルと結婚する。
「春から秋にかけて農業を営み、主に米とトウモロコシなどで収入を得ていました。夫は11月から始まる厳しい真冬の
数カ月間だけ、200キロ離れた都市へ出稼ぎに出ていましたが、この辺りの豊かな自然の恵みで、 生活に不自由する
ことはありませんでした」

しかし、カシミール州議会選挙が行われた1987年、インド政府による不正選挙の疑いが発覚した。政府に対して不信感をつのらせていた人々の怒りは爆発し、暴動に発展していく。その後各地で分離独立運動が活発化し、そしてインドからの独立を掲げた武装闘争が始まった1989年を境に、それまで平和だったダルポラ村の治安は一転した。

独立またはパキスタンへの帰属を望んだカシミールの分離独立組織は、現在もパキスタンのイスラム過激派から支援を
受けている。イスラム過激派組織は、分離独立組織に武器を供給し、彼らをパキスタン側に越境させて軍事教育を
受けさせた後、カシミールに送り返した。その主なルートが、ダルポラ村が面していた軍事境界線にあった。

イスラム過激派は1990年、ダルポラ村の近くに拠点を構えていた。 真っ白な髭をたくわえた、元村長の老人が語った。
「当時ここには、パキスタン人や外国人兵士も多くいました。通信施設があり、パキスタンから運ばれてきた大量の弾薬も保管していました。村には毎日イスラム過激派がやってきて、私たちに村人に、「ジハード(聖戦)」に参加するように
言い続けました。過激派に加わった村の男もいましたが、でも本心をいうと、私たちは争いには一切関わりたくなかった」

そして翌年。インド軍は数万人の兵士をダルポラ村周辺に投入して、イスラム過激派を掃討するため大規模な軍事作戦を
行う。圧倒的な兵力と軍事力の差で、インド軍は過激派組織を壊滅させ、軍事境界線付近にいた残党をパキスタン側に追い返した。

しかし被害は、村人たちにも及んだ。元村長が言う。
「インド軍兵士は、私たち農民にも、イスラム過激派の疑いをかけました。村の男たちは連行された後に拷問を受け、
多くの女性がインド軍兵士によってレイプされたのです。そして悪夢は、今でもこのダルポラ村で続いているのです」

パルベーナの夫アブドゥルはイスラム過激派や独立分離運動には一切無関係だった。政治的な集会にも参加した事もない。
10月27日の真夜中、二人は誰かがドアをノックする音で目が覚めた。無視していると、ドアを蹴飛ばして破壊する大きな音が聞こえ、その直後インド軍兵士5、6人が家の中へなだれ込んできた。

「アブドゥルか!軍の指令部に連行する!」
兵士は機関銃を向けながら、寝巻き姿の二人に命令した。夜9時以降、ダルポラ村には電気がない。懐中電灯でうっすらと照らされた兵士たちは、背中に草木を巻き付けた野戦用のカモフラージュを身に付け、ヘルメットを被った顔は浅黒く、
目だけがギラギラと光っていた。無気味だった。隣の部屋で寝ていた末っ子が、物音に驚いたのだろう、大声で泣く声が
聞こえた。

子どもたちが心配だった二人は、兵士達とできるだけ冷静に話をしようと努力をした。
「なぜ夫を連れて行くのか?理由を説明して下さい」
「連行に理由などない。おれたちは指令を受けて任務を果しているだけだ」

妻のパルベーナは、泣きながら懇願した。
「それなら、明日の朝まで待って下さい。お願いします」
「駄目だ!今すぐ連れていく!お前たちが少しでも抵抗したら、俺はこの銃の引き金を引く」
二十歳ぐらいの若い兵士は、苛立ち、足下にあった椅子を蹴りつけた。

真っ暗な部屋の中で、兵士たちも極度に緊張していた。タバコを吸っていた兵士の顔はとても幼く、兵役についたばかりなのか、小さな物音でもビクッと体を反応させた。長いアンテナが伸びた無線機を背中に担いでいた兵士がいて、手錠のようなものを取り出し、アブドゥルの両手にはめた。夫は連行される時、パルベーナにこう言った。

「お祈りをしなさい。心配することはない。私は悪いことなどしていない。
私の運命は、アッラーの神によって決められる」

パルベーナは一睡も出来ないまま、翌日の早朝、村の外れにある軍の指令部に行くためにバスに乗った。
しばらくすると、道路脇に人だかりができていた。バスがゆっくりと通過する時、「死体がある」という声を耳にした。
まさかと思い、バスから降りた。一緒にいた息子のシャビールに、近づいて確認するように頼んだ。息子は戻ってきた時、
顔をゆがめながら泣いていた。そして「お父さん」と一言呟いた。パルベーナは信じたくなかった。

彼女は勇気を出して、人だかりの中に入った。
「死体に近づきました。上半身が潰れた遺体が目に入り、そのカーキ色のズボンと色落ちた革靴に見覚えがありました。
それから後は、気を失ってしまって記憶がありません」

殺されたアブドゥルの兄アラームは同日、地元の人権活動家と共に軍の指令部を訪ねた。クプアラ地区のインド軍の報道官が出てきたので、アラームは彼にこう迫った。

「あなたの兵士は、私の弟のアブドゥルを殺した。過激派でもない弟を、なぜ殺した。理由を説明しろ」
ターバンを頭に巻いた報道官は、肉食をするスウィク教徒特有の、がっしりとした体格をしていた。
彼はアラームの目を正面から見つめながら、やけに冷静に答えた。

「確かに我が軍の兵士はアブドゥルを連行した。しかし兵士は、その一時間後に彼を釈放したと言っている。
あなたの弟は運悪く、帰る途中に車にひかれたのだ。私はそれ以上の事は知らない」

アラームの怒りは収まらなかった。だが、ほとんどの犠牲者の家族がそうであるように、これ以上どうすることも
出来なかった。
「事実の調査を続け、外国の人権擁護団体に報告する。しかし軍による犯罪を証明する事は大変難しい。時間がかかる。
そしてあなたにも危険が及ぶかもしれない」
人権活動家が、アラームにいった。

アブドゥルの葬儀の日、棺を担ぎだした後、みな裏山に向かった。参列者が全員イスラム式のお祈りをした後、
咲いていた色鮮やかな花が捧げられたアブドゥルの遺体は、小高い丘の斜面に埋葬された。粗末な作りの棺が、
地中深く掘った穴にゆっくりと沈められ、シャベルで少しずつ土をかけられていく。
お墓には墓石もなかった。ただ盛り上がった土の上に、たくさんの花がまかれた。
あれほど泣いていた息子のシャビールは、涙が枯れてしまったのか、しゃがみ込んで泣いている姉を慰めている。

「お父さんはこの場所がとても好きでした」
シャビールは亡くなった父を思いながら、こうつぶやいた。
冬をもうすぐ向かえ、まわりには今にも燃え尽きそうな真っ赤な紅葉が広がっていた。

13年間で1万2000人の未亡人

13年間で6万人が犠牲となっているカシミール紛争。行方不明者の数は、2100人を超えている。2002年9月の
ひと月だけでカシミールで204人が死亡、そのうち20人がインド軍兵士で、126人がイスラム過激派のメンバー
だった。

「残りの58人は一般市民で、その中に10歳以下の子供が8人含まれていました。その58人のうち、戦闘や爆弾テロに巻き込まれて死亡したのは15人だけです。28人がインド軍兵士によって処刑され、そして15人がイスラム過激派に
よって殺害されました。彼らはみな、武器を持たない一般市民や農民たちでした」

人権活動家のパルベス氏が続けた。
「インド軍が掃討作戦を続ける中、イスラム過激派も、軍に協力する人々を虐殺している。軍のスパイと疑われた者は、
両耳を切り落とされた後、鼻をそぎ落とされるなど、信じられないような拷問を受けています。インド軍かイスラム過激派そのどちらの側についていても、カシミールの人々はいつか殺される運命にあるのです。この醜い争いで、一番の被害を
受けているのは、一般の人々なのです」

そして人権擁護団体”ヒューマン・ライツ・フロント”の報告によると、カシミールでパルベーナと同じように夫を殺されて未亡人となった女性の数は、13年間で1万2000人にも及んでいる。

「その内の8割の女性が、25歳から32歳までの若い女性です。そして悲しいことに、夫を亡くした女性たちの9割が、再婚できないでいる。ストレスや家庭問題が原因の場合もありますが、再婚できない一番の理由は、元の夫がイスラム
過激派メンバーだったという過去の問題です。いくら若くて美しくてでも、以前過激派と関係していたと疑われた女性には他の男性は誰も近づかないのです」
カシミール大学社会学部のダブラ教授は言う。

未亡人となった女性たちの中には、時には村八分にされて住む場所を失う者もいるという。夫が殺されて精神的にも打撃を受けた彼女たちには、仕事を得ることも難しく、経済的にも苦しい状況が続いている。カシミールの未亡人たちに対する
援助は、地元からの寄付金で運営しているNGO(非営利団体)が州都スリナガルに一つあるだけで、政府からの援助は一切ない。

1300キロの軍事境界線

カシミールの領土問題で、インドとパキスタンが争い始めたのは、両国が英国から独立を果した1947年8月に
さかのぼる。カシミール地方は英国植民地時代、マハラジャ(藩主)が直接統治していた地域で、事実上半独立的地位を
認められていた。そのため英国からインドとパキスタンが独立を果した際、カシミールの藩王はどちらに帰属するのか
自ら決定してよいとされた。

カシミール藩王は当初、独立を望んだ。しかしカシミールの住民の7割がイスラム教徒だったため、イスラム教国家として独立したパキスタンは、自国に帰属することをカシミール藩王に要求する。藩王は、パキスタン帰属を望まなかった。藩王自身がヒンドゥー教徒で、イスラム教徒ではなかったことが最大の理由だった。

その後パキスタンは、イスラム教徒の山岳部族をカシミールに侵入させるなど、強硬な姿勢を崩さず、危機感を抱いた
カシミール藩王は、ヒンドゥー教徒が多数を占めるインド軍に支援を求めた。インド軍は、カシミールがインドに帰属する事を条件に、軍を出兵させた。インドとパキスタン、両軍の激しい軍事衝突が続き、この時の戦争が第一次印パ戦争と呼ばれている。

14ヶ月後の49年1月、国連の仲介でインドとパキスタンは停戦する。その時、カシミールに1300キロの軍事境界線が引かれ、三分の二をインド(ジャムー・カシミール州)、残りをパキスタン(アザド・カシミール地方)に帰属することで両国が合意した。しかしそれ以後も軍事境界線上では衝突が続き、1965年に第二次、71年に第三次と、今までに
3度インドとパキスタンは全面戦争をしているが、その都度カシミールの領土問題が絡んでいた。

現在インドはロシアから、パキスタンは中国から武器供給を受けていて、それぞれ密接な関係にある。 インド軍の総兵力は130万人、パキスタン軍はその半数にも満たない53万人。軍事力においても、パキスタンはインドに圧倒的に劣って
いる。 過去3度の全面戦争も、すべてパキスタン軍が敗北している。そして大国インドの脅威に怯えたパキスタンが、
国家として生き残る唯一の方法として選んだ道は、核保有国になることだった。
現在パキスタンは、インドとの軍事境界線沿いや国境付近に射程200キロの戦術核兵器を複数配備している。インドも
核保有国であり、現在両国合わせて80発前後の核弾頭を保有しているとみられている。米国防総省は、もしインドと
パキスタンが全面核戦争に突入すれば、最大1200万人が即死すると推定している。

3万人が難民

カシミール地方にに引かれた1300キロの軍事境界線付近では現在、インドとパキスタン両軍による砲撃戦が止むこと
なく続いている。境界線を越えて侵入しようとするイスラム過激派とインド軍の激しい銃撃戦も起き、今年だけで、
境界線付近に住んでいた3万人以上が難民となっている。

カシミール北部の村ミッチェルでは、夜明け前から始まったパキスタン軍の砲撃に対抗して、インド軍も攻撃を繰り返していた。村から5キロほど先に、パキスタン軍の野営地があるという。時折その方向から、機関銃を乱射する音が聞こえる。インド軍も負けてはいない。ロシア製の巨大な大砲はひっきりなしに火を吹き、地面を揺らしながらパキスタンに向けて
砲弾を放っている。

「何を恐れている。戦争は毎日だ。次第に慣れていく。一発砲撃を受けたら、十発やり返せと司令官に言われている。
俺たちインド軍が本気で突撃すれば、パキスタン軍などは一日で全滅する」
砲弾を運んでいたインド軍兵士が無表情で言った。

以前カシミール各地の観光名所には、毎年多くの旅行者が訪れていた。しかし旅行者の数は年々減少する一方で、
カシミール唯一の観光産業は、現在壊滅状態にある。
ミッチェル村も美しい自然に囲まれ、以前は5000人以上が暮らしていた。しかしほとんどの住民が後方の難民キャンプに避難しており、住民は500人以下に減った。ダルポラ村のインド軍前線基地には、約2000人の兵士が常時駐屯しており、村から数キロ先の最前線には、3000人以上の兵士が配置されているという。

ミッチェル村の所々に塹壕が掘ってあり、十メートル四方の大きなものもあった。一つの塹壕に20人以上が避難する事ができるという。早朝から始まった砲撃戦は、昼時になっても終わらず、村の人々はみな、暗い塹壕の中にいた。
「ポンッ」
という音が時折、山の反対斜面から聞こえる。「キュー」という音をたてながら上空を飛ぶ砲弾は、接近してくると
「ギュルーン」という無気味な金属音に変わり、砲弾は砂煙を数メートル上げて爆発する。
砲撃が少し止むと、塹壕から出て自宅に一時戻る人もいる。でもまた砲撃が激しくなり、一旦家に帰っていた女性が、
息を切らしながら、着の身着のままで塹壕に駆け込んできた。彼女は疲れ切った表情で言う。
「砲撃はここ数カ月毎日のように続いている。早く戦争が終わってほしい。この塹壕は、インド軍が私たちの為に作ったものです。でも私たちに本当に必要なのは、塹壕ではなく、平和なのです」

両軍の砲撃戦がしずまった午後1時、子どもたちが塹壕を出て、村の小学校に向かった。
学校と言っても椅子も机も無い。黒板だけがあり、軍事境界線に面した教室の窓には、高く土嚢が積み上げられていた。
扉が無い隣の教室には、放し飼いの羊が数匹いる。

8歳になるナシールは、同い年の友人と教室の片隅に座り込んだ。
持っていたノートを広げ、数日前に習ったという算数を暗記し始める。

「先生が学校に来るのは三日に一度ぐらい。勉強したくても出来ないんだ」

ナシールは友人と一緒に、足し算を大きな声で読みあげる。

そしてしばらくして、子供達の声を揉み消すように、ミッチェル村でまた砲撃戦が始まった。



2002年 アエラ掲載




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